今年の暮れ、東京銀座のギャラリーで、コピーライター故岩崎俊一氏の展示会が開催された。東京コピーライターズクラブが「TCCホール・オブ・フェイム」殿堂入りを記念して企画した、おそらく日本の広告史上初の「文字だけの=コピーだけの」コピーライター展だろう。今年の心残りはいくつかあるが、最も大きな心残りはこの個展に行けなかったことだ。
ぼくが岩崎さんに初めてお会いしたのは、1993年の冬。当時、富山コピーライターズクラブによる年に一度の賞審査会へ、特別審査員として富山へ来ていただいたのだった。既にTCCの常連で、ソニー、パルコ、西武百貨店やキリンビールのヒットコピーをいくつも書いていた。出身大学と学部が同じこともあって、勝手に「先輩」コピーライターとして憧れていた。
今思えば読むのが迷惑になりそうなくらい長い、審査の依頼状を書いたのを記憶している。多忙な日々にもかかわらず名も無い一地方の審査会を快く引き受けていただいた。富山空港に降り立った岩崎さんは、すぐにわかった。テニス焼けした精悍な顔つき、鍛えられた全身、とにかくかっこ良かったな。
審査後の講評は「もっとやんちゃに」だった。ちょっとまじめすぎる、というのが全体の印象で、広告という形にとらわれすぎているというアドバイスをいただいた。その時はわかったつもりだったが、果たしていま、それができているか自問すると、恥ずかしい限りだ。
ある日、岩崎事務所から一冊の情報誌が届いた。岩崎さんのエッセイが連載されていた。ぜひ、バックナンバーも欲しいとお願いすると、まもなく分厚いゲラのコピーが届いた。それらのエッセイは後に「大人の迷子たち」(廣済堂出版)として一冊の単行本になるのだが、ぼくにはあのゲラは宝物だ。
岩崎さんとの最初の出会いから20年後、2013年に富山コピーライターズクラブが北陸コピーライターズクラブに生まれ変わった。記念すべき最初の審査会を開催するにあたって、ぼくの願いが叶い、特別審査員に岩崎さんを再びご招待することになった。
しかし、残念ながら体調が思わしくないとの理由で、二度目の審査員として来ていただくことは叶わなかった。それでも、いつかお招きしたいとひそかに念じて、健康の回復を祈っていたが、ついに再会の機会は来なかった。翌年の師走、突然の訃報が信じられなかった。67歳の若さだった。
あなたに会えたお礼です。
ボディコピーはこうつづく。
人が、一生のあいだに
会える人の数はほんとうにわずかだと思います。
そんな、ひと握りの人の中に、
あなたが入っていたなんて。
この幸運を、ぼくは、
誰に感謝すればいいのでしょう。
あなたに会えたお礼です。
(サントリー/お歳暮/1985年)
トンボ鉛筆、東京海上日動サミュエルなど、岩崎さんのコピーは、晩年になるほど深みを増し、人間の心のひだの部分を確かに映し出していた。氏のキャッチフレーズやボディコピーを読んでいると、コピーライターは大人の仕事、いや一生の仕事なのだと気付かされる。
岩崎さん、あなたに会えたお礼をぼくは何と言えば良いのでしょう。答えが見つかるまで、もう少しコピーを書き続けます。
今日は「新聞広告の日」、北日本新聞広告賞が松永真審査委員長のコメントと共に朝刊に紹介されていた。グランプリは2年連続のD社、「富山の皆さん、富山へ行こう。」とまるでコロナを予感したようなアイデア、悔しいがよくできている。そして、コロナ禍、当社が制作をお手伝いさせていただいた特別賞も小さく掲載されている。
それにしても広告業界には実にたくさんの賞がある。TCCや東京ADCを頂点に全国のコピーライターズクラブやアートディレクターズクラブなど制作者が主催する賞から、ACCや広告協会など広告団体が主催する賞、新聞社や出版社など媒体社が主催する賞、カンヌやクリオ、ワンショウなど世界規模の賞も少なくない。それぞれ審査基準や審査方法、賞の価値もさまざまだ。
こんなに多種多様な賞がある業界は、広告業界だけかもしれない。若いクリエーターにとって賞は、デビューのチャンスになるかもしれないし、受賞者が新たな仕事を獲得することは、ままある話だ。あるいは、広告という正解のない制作物をつくるクリエーターにとって、賞をもらうことである種の安心感を得ているのかも。
はたまた、広告人という人種は、特に広告制作者は賞が好きなのかもしれない。賞を盛り上げる人がいなければ、賞はすたれてしまう。しかし、ほとんどの広告制作者は上昇志向が強く、自己顕示欲が強い、負けず嫌いで賞にどん欲なタイプの人間が多い。というわけで、私を含めお祭り大好き人間が集まる広告業界は、さまざまな賞が花盛りの森となったのである。
ちなみに当社では、賞をいただくと受賞作とスタッフをミーティングで賞賛し、全社員で拍手してホームページやFBでも紹介している。賞をとるために仕事をしているわけではないが、受賞を報告をすればクライアントのみなさまにもたいへん喜んでいただいている。
賞の功罪については、昔からいろいろ言われているが、一人の制作者、一人のコピーライターとして、賞は全ての苦労が吹き飛ぶほど嬉しいし、次の仕事のエネルギーになる。おだてられれば木に登る、人間もサルも同じである。もし、いただけなければ、受賞作に嫉妬する。それはそれで、次は負けるもんか、というエネルギーになる。どっちに転んでも、賞があるおかげでがんばれるのは事実だ。
地方の賞が今ほど盛んになる前に、富山コピーライターズクラブ賞を創立した。今は、北陸コピーライターズクラブに引き継がれ、HCC賞として北陸のコピライターやCMプランナーたちの目標のひとつになっている。このコピーライターズクラブ賞は、いろんな意味で今の自分を育ててくれたと感謝している。
今年は新型コロナの影響で、そのHCC賞がクラブ史上初めて中止になった。何十年もあったものがない、こんな喪失感は味わったことがない。伝統的なお祭りが中止に追い込まれた当事者の気持ちが少しはわかる。Withコロナと言われる時代、社会も会社も、広告もコミュニケーションも、みんな変わった。世界中でビッグイベントが中止になっている。しかし、賞のない広告業界なんてつまらないと思う。
そんな中で来年以降、開催される広告賞はどう変わっていくのか。コピーライターの仕事そのものが問われているいま、賞のあり方も問われている。もちろん、HCC賞はやる方向で進んでいる。いま、北陸のコピーライターは考え中だ。賞は以前のように僕らにエネルギーをくれるものであってほしいが。答えはまだ出ていない。(石井)
もう、師走ですね。みなさんいかがお過ごしですか。コピーライターの石井です。
毎年、12月になると、新しい年の会社のテーマを考えます。2020年、どんな思いで仕事にとりくむか、クライアントさんへの約束であり、スタッフみんなの目標でもあります。
そこで、テーマを思案しながら思い出したのが、今年の2月に開催された「全国CCミーティング北陸大会」です。私の所属する北陸コピーライターズクラブが主催し、北は札幌から南は沖縄まで、全国のコピーライターズクラブやクリエーターズクラブのメンバーが加賀温泉に集まりました。
そのときにCM界のレジェンド小田桐昭さんをお招きしてのトークイベント「広告の未来について」が催され、あらかじめ全国のコピーライターから寄せられた質問を、ぶっつけ本番で小田桐さんにぶつけるという形式で進められました。
「広告と作家性についてどう思うか?」「広告において過去も未来も変わらないことは?」「コピーライターの働きどころはスローガンか、キャッチフレーズか」など、広告づくりの本質にせまる難問がつづきました。どの問いにも真正面からお答えいただき、なるほどと思わせる説得力のある回答ばかり、さすがと感心して聞き入ってしまいました。
ちなみに小田桐さんの回答が気になる方は、「2019HCCコピー年鑑」(宣伝会議刊)に全質問と全回答が採録されていますので、そちらを購読ください。
そして、最後の質問は「広告の未来のありように『広告』じゃない名前をつけるとしたら?」、小田桐さん曰く「とんでもないものが突っ込まれていました」。
小田桐さんの答えは「広告とはある種のエンターテインメントであると思います。広告には買ってもらうとか知ってもらうとかの目的があって、その代わりに生活者にエンターテインメントを提供しますよね」「見る人の心を動かすためには、新しいものを突っ込む力を広告制作者はもたないといけない」(抜粋)というものでした。
「広告じゃない名前」については具体的には示されませんでしたが、自分の伝えたいことを一方的に伝えるだけじゃだめなんだ、と強くおっしゃっていたように思いました。
小田桐さんのお言葉を肝に銘じるためにも、野暮を承知で私なりに考えてみました。
興味深く伝えるなら「興告」。深く考えを告げるなら「考告」。好かれることをめざすなら「好告」。効き目を優先するなら「効告」。そして、見た人を幸せにするなら「幸告」でしょうか。広告という言い方は、広く告げるですから、送り手からみた表現になっています。それに対して、幸告は、受け手の感じ方を表現しています。これからの広告に大切なのは、そういうことなのかもしれません。私たちがつくった広告が、見た人のこころを1ミリでも1秒でも幸せな気持ちにさせることができれば、それをつくった私たちもまた幸せになれます。
というわけで、2020年、当社のテーマは「広告を幸告にするために」です。最後までお読みいただきありがとうございました。では、みなさま良いお年を。